学生から社会人になると勉学から労働が生きる時間の多くを占めるようになってくる。学生自分は勉強って何だということを思ったりはあまりしなかったように思うが、社会人になってから働くっていうのは一体何だ?ということを思うようになった。
何せ学生よりは社会人で居るほうが普通は長い。数十年は社会人として(これも普通は)労働に従事しなくてはならない。
そういう思いは転職をした後も大きい。残念なことに労働時間というものが生きる時間の大半を占めている事実がある。これからどうなるかは分からないが、少なくとも以前はその割合がかなり大きかった。
色んな事情があるにしても、ヨーロッパの人たちの労働環境を目の当たりにしてからは、日本人の労働環境に対する疑問がかなり大きくなった。彼らには殆ど残業というものがない。最初は冗談半分に日本は敗戦国だからかね、なんていっていたがドイツも同様の敗戦国だ。人が死んだりうつ病になったりしながら働かないと回らない組織体制でなくても、ヨーロッパの会社はやってゆけている(中小企業などそうでないところも多いらしいが、ただ日本を代表する企業で先端技術の開発という土俵で比較した場合、少なくとも私にはその違いが顕著に映った)。
私の以前の職場環境でも今の環境でも、働く人はばりばり働く。家庭があろうが働く。口先だけは嫌がっている(これが重要)ものの、事実としてそれを拒否するようなことはなくとにかく働く。責任感が強いというやつなのか、とにかく私にとっては尋常ではない世界が当たり前のものとして、特に前職では存在した。彼らをそこまで惹きつけるものって何だ?残業代?そんなちんけなもので自分に嘘をついてまで心身を削れるものなのか。それとも変態?非常に不思議な世界が展開していたものだった。私には集団発狂に見えた。
そんなこんなでこの本を見つけたのでちょっと読んでみた。著者の他の本は前も読んだことがあり、面白かったので期待はできた。
太古の昔から始まり現代に至るまでに、労働がどういう風な見方をされてきたか、どういう風に利用されてきたかということが書かれている。労働は人生であり、労働は本質的に悦びであるというレトリック(つまりそれは大いなる嘘である)や、犯罪者を労働によって「再教育」した事実などを例にあげ、原始的な生活を営む民族の労働と現代の虚栄心に基づく労働の対比を行い、労働中心の政治と経済が同じく扱われる世界での、これからの我々の行く道筋を照らしている。
虚栄心。それが私が最初に疑問に思っていたことの回答だった。著者は過去の文献で行われたアンケートをを元に、その文献の著者とは別の労働の本質と結論を抉り出す。そこには労働そのものに対する喜びではなく、人に認められる喜びということが結論付けられている。虚栄心から出た承認要求など決して満たされることはない欲望だ。そうして人々は無間地獄に落ちてゆく。誰もが知っての通り、欲望はきりがないわけだし。(ただ、虚栄心が全て悪であるというわけではないという)
著者は労働はもはや象徴的な記号になってしまっているという。面白いと思ったので引用する。
人はブランドと名声の高い企業に就職する。労働の質とか自分に最も適した仕事かで企業を選ぶのではない。労働の種類は何でもいい。企業の内部での労働であろうと、他の職種であろうと、何でもこなすが、社会的に格が高いと創造されるのであればなんでもいいのである。問題は、そのこなす労働の結果によって、上司と同僚から「格が高い」と評価されることだけが、いまや労働の動機になった。こうして労働は、消費財的になったのである。
ははあ、そうだなと思った。自分で選ぶわけではなく、人がどういう風に見ているかということを基準に何事も選ぶ。自分の描いた他人の中で生きているとはよくいったものだ。
消費財というのがいかにも面白い。また、ここでは同時に中間階層にいる人間がもっとも苦しい思いをするということも指摘している。
前職を離れて今一度労働することとは何か、ということを客観的に考える機会に恵まれた。身をもって自分をそういう状況に置くことで、イヤというほどそれが見えてきた。机上の空論ではない、実経験に基づいた知識というか知見を得ることが出来たと思う。
今の環境を手放しに賞賛ような愚はしないけれども、そういう経験を身をもって出来たことは大変価値あるものだった。何か冷めた感じなのかもしれないが、近視眼的に環境を受け入れず、労働観を客観視できるようになったと思う。
ただ、かといって労働に没入する人を見て「あはは、馬鹿だ」とは言わない。自分と価値観が違うゆえに悲しい人たちであると見えてくるようになった。
この本は労働というものを通して、人間としての生き方をどう見ていくかということも書いている。日常生活の中で最も長い時間を閉しめる隷属的な活動である労働が、どいうものでどういう歴史を歩み、そしてどう捕らえてゆけばいいのか、選択肢を提示する。一番人生の時間を割くものに対して、どう向き合えばいいのか考えることは生きることを考えることに等しいのかな。
私の場合、労働に埋没したりすることに極めて否定的なため、ネガティブな面を多く捉えてしまったかもしれない。内容は少しばかり小難しいけれども、距離を置いたものの見方の一つとしてこんなアプローチもあるものなのだということを知った。
誰のための労働なのか。働くために生きているのか、生きるために働くのか、それ自身を決めるのは自分の責任であり誰の責任でもない。どちらをとってどんな結果になっても、それは自分自身の責任である。そうした時、どういう道をとるかだ。
1日労働3時間。これが実現できる社会は全く別物であると思うけれど、しあわせで面白いだろうなあ。
近代の労働観
posted by 煩悩即菩薩 at 21:56
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