共産党員ではないですが、過去のものを掘り起こしてみようという気持ちがあり読んで見ました。というか、最近ワーキングプアなどの問題指摘と関連して「蟹工船」なんかいうプロレタリア文学が再び脚光を浴びているというではないですか。「万国のプロレタリアよ団結せよ」とプロレタリアを鼓舞し、道筋を照らしたといえばこの本が原点でしょう。
正直言ってとても短い本なので、これで共産主義の真髄は分からないかなと思いました。背景になる歴史や、執筆された百年前の事情などが分からない限りはそのレベルに多って物事を解釈することは難しいものです。その知識の絶対量が足りない。
序文からして階級闘争がある、と断言しているのも「はて、本当かいな」とつまずく有様。あるといわれればあるし、ないといわれればないような気もする。陳腐な言い方だけど、全てが(人間同士だって、人間と人間以外の動植物だって、人間一個体を構成する細胞同士であっても)資源の獲得競争で出来ている世の中が、こんな人工的な理論の箱に収まるはずがまずなさそう。
徹底した資源の共有と反骨精神は見事だ。様々な社会主義や共産主義と対置をし、叩き潰した上で共産主義の精神を血まみれの絶叫と共に擁立する気迫に戦慄を覚える。新しい国家システムを構築するところも、やっぱりこういうのを天才というのかなと思う。
ちなみに今ネット社会で台頭してきている共有ブームというのかな、無料ブームというのはちょっと共産主義っぽいなと素朴に思う(巨大ソフトメーカによる一極支配に対するものとして)。
全ての価値観(良い、悪い)というのは権力者が決めること、とはヴェブレンがいったのかそうでないのか、いずれにせよそれは間違いないと思う。最近、弱者は弱者であるがゆえにその地位に居るのだなと、当たり前のことを再認識している。
革命というのは一度国を焦土にかえてからでないとなしえないものなのかな。そこからプロレタリアによる政治をし…。ここで労働者を農民に置き換えたのが毛沢東だったり、ポル・ポトだったりするのかな。
共産主義のシステムは結局失敗してしまったけれども、その全てが間違いであるとはいえない。ただ弱者は弱者でしかなく、階級が転覆しても再び同じ闘争が現れ、そういう歴史を繰り返してきたというマルクスの言は結局、共産党一党独裁に付随した腐敗で露呈してしまった。彼が書いたことが共産主義国家の中で起こってしまったように思う。人間くさいところまで、国家は管理できない。
ううむ、じゃあ弱者は弱者であるがゆえに結局は搾取される運命にあるのか。このまま世の中を覆う大いなる虚実の中に飲み込まれ、支配されて消えてゆくのか。
第一に優先されるのは大嘘の後ろに隠された権力者(ブルジョアというのか)の利益であることには、今後も変わりなさそうだ。
でも、世の中の大多数は結局それでいいんじゃないかとも思う。少なくとも大成翼賛的な思考停止に対して、自分は疑問を持っているけれど(もっていたいと思ってる、かな)。
他の文献を当たって、この本に立ち戻ってきた時に新しい発見があるように思う
共産党宣言改版